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産学官民交流事業

2023.04.07 第231回東三河午さん交流会

1.日 時

2023年4月7日(金)11:30~13:00

2.場 所

ホテルアークリッシュ豊橋 4階 ザ・テラスルーム

3.講 師

設楽原歴史資料館 館長 湯浅 大司 氏

  テーマ

「新しい『長篠・設楽原の戦い』の姿」

4.参加者

45名

講演要旨

 私は地元の愛知大学を出て、新城市役所に入り、設楽原歴史資料館の開設に関わり、以来資料館の方で業務に携わっている。こうした関係で、長篠・設楽原の戦いのことを割と身近に研究することが出来たので、今日はその部分を少しお話しさせていただく。
 大河ドラマ「どうする家康」の家康像は、私たちが知っている家康とはかなり違った家康像が描かれている。私たちが知っている家康像は、江戸時代の主君、東照大権現として神様になった家康像をずっと聞かされている。例えば、桶狭間の頃、すごく泣き虫で弱い家康が描かれていたが、10代の若者がいきなり大勢の兵を率いて戦場へ出ていき、自分が頼ろうとしていた大将がいなくなる場面で、果たして堂々としていられるのかというふうに考えていくと、あのような家康がいてもいいのかなと捉えることも出来る。これからどういう家康像が描かれていくのか、すごく楽しみにしながら見ていきたい。6月4日、11日の2回にわたり、新城市が大河ドラマの中で舞台として取り上げられ、長篠・設楽原の戦いが描かれる。また、2025年は、長篠・設楽原の戦いが起きて450年という大きな節目の年となる。この戦いは、東三河にとって非常に大きな戦いでもあったので、東三河の中でどのように盛り上げていくべきか、私たちはこれから一生懸命考えていかなければならない。そうした中、東京大学資料編纂所の研究の中で、いろいろな新しいことが分かってきたので、少しご紹介させていただく。
●長篠・設楽原の戦いとは何か?
 今から448年前、天正3(1575)年5月1日から5月21日にかけて行われた戦いになる。実際に私たちがイメージしている武田軍と連合軍が鉄砲を撃ち、騎馬隊で突撃したという戦いは、5月21日の1日で終わっている。それまでは、武田軍が長篠城を取り囲むというようなことをやった戦いになる。甲斐の領主であった武田勝頼の15,000人の兵に対し、織田信長の30,000人、徳川家康の8,000人の兵が5月21日に戦った。武田軍・武田勝頼は当時30歳、織田軍・織田信長は42歳で息子たちや良く知られた武将がこの戦いに参加している。また徳川軍・徳川家康が34歳ということで、非常に若い人たちが大勢の兵を引き連れて戦った。結果的に、武田軍が敗れ、織田信長と徳川家康の連合軍が勝つという戦いになるのであるが、徳川十八将のうちこの戦いで亡くなった人は一人もいない。武田二十四将は、この戦いの前までは信玄を支えてきた人たちが武田勝頼を支えるというような形でまだ大勢生き残っていたが、この戦いで大勢亡くなり、武田軍にとって大きなダメージを受けた戦いとなった。
 武田勝頼は、武将信玄が広げた領地をわずか数年で滅ぼした悪い武将だという評価が定着していたが、最近の研究では、織田信長や徳川家康も認めていたかなり優秀な武将であったと言われるようになっている。分かりやすく言うと、武田勝頼の時代が武田軍にとって一番広い領地を持っており、信玄に劣らず立派な仕事をしていたということが最近言われるようになっている。信玄はみんなで相談し、最終的に信玄が決断し、自分たちがどの方向へ進んでいくかを決定してくというやり方をしていたが、勝頼は織田信長のようなトップダウンで物事を決めていく方が時間勝負になるこの戦国時代に合致しており、自分を支えてくれる若い武将をどんどん育てていこうと考え方を変えた。結局、信玄の時代の生き残った武将たちがこれから自分たちはどうあるべきかを考えた時に、勝頼から離れていくという決断をしていく人たちがかなり大勢出て、それが最終的に攻められるというような位置になっていったこと、それ以上に信長の成長が著しく、いくら頑張っても信長の成長に追いつけなかったというのが、武田が滅んでくる一因になったと思われる。そういったことを考えていくと、決して武田勝頼は悪い武将ではなく、非常に優秀な武将であったというふうに考えることができる。優秀な武将勝頼と、もう一人優秀な武将信長、それから家康という人たちが戦った戦いが、この長篠・設楽原の戦いである。
●なぜ、武田勝頼は長篠城を攻めたのか?
 この当時、信長は京都もしっかり押さえる日本最大の大名になっており、それに対して武田軍は信玄よりもさらに三河や遠江の北の方をどんどん浸食しているという状態であった。従来の見方は、三河を取ること、徳川家康の領地、岡崎城、吉田城、浜松城の3つの拠点を自分のものにするため、長篠城を取ることによって東三河の北半分を取り、そこから吉田に攻め込む道筋を作りたいと考えられていた。それに対し、最近の考え方は、三河だけでなく、日本いわゆる中部地方とか関西の方まで含めて広く見るべきだというふうに考えられている。武田軍は決して単独で動いていたわけではなく、織田信長という日本最大の勢力を持つ人に対抗する勢力、石山本願寺、北陸の方の一向宗、武田という信長に対抗する勢力が織田の領地の外にいて、その勢力の一つとしての武田軍が反織田信長の勢力として動くというふうに見るべきだというのが最近の考え方になってきている。そうすると、信長と一番親しい戦国大名は家康になるので、武田軍が信長と直接対決するのではなく、信長を援護する徳川をたたくことによって織田の勢力をまずは減退させる。それからもう一つは、この当時、反織田信長勢力の重要な拠点の一つが大阪にあった石山本願寺となる。石山本願寺は、食料の補給とか武器・弾薬の補給が段々厳しい状況となり、このまま織田に攻められると持たないという状況の中で、武田が徳川を責めることにより、一旦この石山本願寺から信長の目を逸らすという動きをしていく。だから、単純に徳川を攻めて三河を自分の領地にするということではなく、織田信長対反織田信長の記憶の中の一つの戦いだったというのが、この長篠の戦いのきっかけだったと最近は考えられるようになってきた。武田軍が長篠城を攻めたことにより、織田が石山本願寺から離れて三河へ徳川家康の救援に来るという部分からするとある意味成功していると言うところはあるが、織田が本気になって来ると思っていたかどうかは分かりにくい。徳川をたたくことによって織田の勢力を減退させるとだけではなく、もっと大きな意味がもう一つあったのだと思う。それは、この長篠城というお城を責めるのが目的だったのか、落とすことが目的だったのかということを考えなければならない。武田軍の15,000人の兵に対し、長篠城の兵はたった500人しかいない。通常1つのお城を攻めるのに3倍の兵力が必要であると言われており、500人の城を攻めるとしたら1,500人の兵であればそのお城は一応攻めて勝つことができる水準になってくる。その10倍の兵力を連れて来ているという事を考えると、明らかに長篠城だけが目的ではないと考えるべきだと思う。武田勝頼は、長篠城を取り囲んで数日長篠城を攻撃したが、攻撃をしている間に長篠城の囲みを解いて、ずっと南下してきて吉田城を攻撃するということをしている。この時、吉田城には徳川家康が5,000人ぐらいの兵を率いてお城の中に入っていたと言われており、この時15,000人の兵力は吉田城を攻撃するには非常にちょうどいい人数になってくる。ただ、勝頼もここで警戒したのは、まだ長篠城が落ちていない状態で、食料や武器弾薬の補給のことを考えると、あまり長い期間吉田城を取り囲むというのは難しいと考え、囲みを解いてまた長篠へ戻っていくという動きをとっている。勝頼としては、長篠城を落とすことが目的ではなく、長篠城を材料にして家康との決戦を考えていたというふうに考えた方が自然なのかなと思っている。
 私たちは、「長篠城は武田軍の猛攻によく耐えた」という言い方をする。勝頼は長篠を落とす気があったのかどうかっていうところは少し考える必要があると思う。これは、武田勝頼が家康との決戦ということを最終目標として考えていた時に、長篠城を落としてしまうと家康が長篠城を救いに来ないという状況になってしまう。勝頼は、長篠城をいつでも落とせる状態にしておいて、家康が出てくるのを待っていたのであろう。このまま吉田城を攻めていくと籠城戦になるので、一瞬で決着がつくいわゆる決戦に持ち込めば武田軍がすごく有利になると考え、長篠城を落とさないようにして家康が出てくるのを待つ。もう一つの大きな効果は、長篠城が非常に苦しい思いをして持ちこたえようとしているのを徳川の家来たちが見て、長篠城を助けてあげたいけれども、自分の大将である家康に力がないから長篠城を助けることができない。だけど、助けてあげたい、家康は動くかな、動かないかな、とずっと自分の主人の顔を見ている。もしここで家康が動かないという決断をしたら、その家来たちは長篠城を見捨てたというふうに考え、家康に果たして自分たちは付いていっていいのかどうかという選択を今度は家来たちが迫られる。その結果、長篠城を落とさずにいつでも落ちる状態で置いておくということを高く見せつけることによって、徳川から家来がだんだん分断されていく、家来が離れていくっていうようなことも誘おうとしていたので、家康からすれば何としてもこの長篠城を助けるという動きをせめて見せないとまずいというのがある。ただ長篠城を助けようと思うと、自分たちでは兵力が全く足りないというのがあり、信長に援軍を頼まざるを得ない。ということで、信長に援軍を頼む。信長は援軍をどうしようか迷うが、今ここで徳川が潰れてしまうと、もし長篠城がここで落とされてしまうと次は吉田城までいっぺんに来られるという恐れが出てくるので、徳川は持たないというふうに信長は判断した。信長からすれば、徳川がいなくなった時に、自分一人で天下統一ができるかというふうに考えていくと非常に難しいと考え、ここは徳川を助けるべきだっていうことで援軍を出すというようなことになる。その結果、30,000人の援軍、信長本人がやってくるというような格好になる。
●本当に鉄砲三段撃ちはあったのか?
 この戦いの中で非常に有名なのは、信長が3,000丁の火縄銃を持ってきて、この火縄銃を使って戦ったという話しである。しかも、この3,000丁の火縄銃を有効に使うために「三段撃ち」をしたと言われている。この三段撃ちをやろうとした時に、果たしてできるのかどうかというのがずっと議論されてきていて、最近は三段撃ちがなかったという説が出始めてきている。ちゃんとした資料にその記録が出てこないというのが大きな理由の一つになるのだが、何の根拠もなく三段撃ちの話しが出てきたとも考えられないので、三段撃ちの根拠は何なのかいろいろ考えている。
 私たちが、普段三段撃ちと言っているのは、3人一組になって一列に並び、1番前の人が撃ったら後ろへ下がり、2番目の人が打つ。後ろに下がった人は、弾込めをしながら前へ出て行って撃つ。実際どうかというと、効率が良さそうに見えてなかなか効率の悪い方法になる。火縄銃を一発撃つのに30秒ぐらいかかるが、3人一組になって撃つことにより、単純に3分の1の10秒ごとに撃つことができるというのがこの考え方になるが、実際にどうかというと、1番目が撃って次の2番目が撃つ時に時間としては確かに短縮されるが、1番目が撃ち、次の2番目が撃つまでに20秒から25秒ぐらいかかる。それから3番目が撃つのにやはり20秒から25秒ぐらいかかる。このやり方でやったとしても、5秒とか10秒ぐらいしか短縮できない。それから、みんな同じ水準であれば弾を撃つのがみんな同じスピードで撃てることになるが、この中に一人でも40秒かかる人がいるとだんだん遅くなり、一番能力の低い人に合わせて撃たざるを得ないという状況が出てくるので、あまり効率が上がらない撃ち方になる。
 もう一つ、三段撃ちというのがあって、この設楽原という地域は、河岸段丘といって、一番低いところに川が流れていてそこから階段状に土地が上がっているという場所になる。この河岸段丘のところの階段上のところに一人ずつ立って撃てば、前の人を飛び越えて弾が飛ぶ撃ち方になり、人の移動が不要であり、待たなくて良いという非常に効率が上がる撃ち方になる。ただ、最上段3番目の人は非常に良いが、1番目と2番目の人は、後ろから弾が飛んでくるので非常に怖いということ、それから鉄砲はやはり銃口から大きな音が出るので、前にいる人は鼓膜が破れるぐらいの音がする。1番目と2番目の人は非常に怖い思いをしながら撃たないといけないということ、3番目の人は敵からかなり離れていて、命中率がかなり落ちるので、現実的ではないだろうと考えている。
 それからもう一つの撃ち方として、三角形に並んで1番目は鉄砲を撃つ人、2番目は弾込めをやる人、3番目は火縄のセットをする人という、一人一人が役割分担をして撃つという撃ち方になる。比較的このやり方をしたという人はいるが、不発が非常に起こりやすいということが一つある。通常は、撃つところまでちゃんと自分が監視して撃つが、弾込めや何かを全て人に任せるという形になってしまうので、不発の多発や不発した場合に弾が二重に入ってしまうという恐れがあり、これは非常に危ない撃ち方になる。
 そしてもう一つが、最初にお示しした3人一組になって撃つ撃ち方で、例えば15人ぐらいで一つのグループを作って撃つという撃ち方である。こちらやり方は、縦3人が1つのグループではなくて、15人ぐらいのグループで弾を撃ったら、とにかく後ろへ下がって弾込めをする、2番目のところで待機をして空いたところにどんどん入っていくという方法で、これが一番早く撃てる比較的良い方法ではないかということで、一つの考え方としてあったのではないかと考えている。
●なぜ、武田勝頼は無謀な戦い挑んだのか?
 この戦いというのは、信長・家康、武田勝頼双方が、すごくいろんな作戦を立てていて、いろいろ考えていた結果、最終的に織田軍・徳川軍の連合国が勝ち、武田軍が負けたという戦いになる。より優秀な作戦を立てたのがどっちかというところが最終的に勝敗の分かれ目になったところになるが、一つは火縄銃を武田軍がどれだけ警戒していたかというところがある。火縄銃には、射程距離というのがあり、だいたい狙って当たる距離が60mぐらいになる。武田軍は絶対に鉄砲弾が飛んでこない場所に陣地を置き、武田軍が動かなければ戦いが成立しないという戦い方をした。武田軍は、反信長勢力の人たちにいわゆる外交という手段を使って、信長をここから引き剥がすということをおそらくやったのだと思うが、それが成立する前に戦いが始まっていくことになる。それは、今度、信長たちがそれをさせなかった、その外交を行うだけの時間を与えなかったというのがあった。長篠城の反対のところに、東三河の領主である酒井忠次たちが奇襲攻撃を仕掛ける。武田軍はここにいて時間を稼ごうと思っていたところ、背後に連合軍が回ってきて、後ろから追い立てられることになり、武田勝頼もちゃんと戦いのことを考えていて、今攻めては駄目だと考えていたが、そうせざるを得ないような状況に陥っていってしまったというのが、真相だったのではないかと思う。
 決して、武田自身は無謀な戦いをするつもりはなかった。しかも、もし攻めるとしたらどういう攻め方をするかということもちゃんと想定していた。設楽原という場所は、田んぼが非常に多い地域になる。そこへ入っていけば、自分たちは身動きが取れないというのは当然武田軍の方も知っていたし、信長・家康もそこを戦場として選んだという一つの大きな意味があったと思う。わざわざ田んぼの中に入るのではなく、田んぼと田んぼの間にあるあぜ道に攻撃をしかけていく、どこか一点でも集中攻撃を仕掛けていって連合軍が造った馬防策を突破してしまえば、連合軍は火縄銃を使えなくなるので、自分の味方の方に向けて火縄銃を撃たなければならなくなる。そういったことを考えると、武田軍の方も十分に勝つ見込みがあったのだが、全て上回ったのが信長・家康の作戦だったのだろうと考えている。私たちは結果を知っているので「無謀な戦いをした」と言いがちであるが、信長も家康も武田勝頼も、これから行われることでどうやったら双方ともに勝てるかということを一生懸命考えた結果、最終的に信長・家康が立てた作戦の方が上手だったと考えられる。
●東三河の武将たちはこの戦いの時、何をしていたのか?
 この東三河には非常にたくさんのお城があり、それぞれ国衆と呼ばれる豪族、いわゆる城主がたくさんいた。豊川、新城、蒲郡、田原にもそれぞれお城があり、東三河のいわゆる山から平野部にかけて、徳川家康に所属する武将たちが大勢いた。この中で、田峯の菅沼定忠だけが武田方で、それ以外はみんな徳川方に付随している。この当時、徳川家康の自領地の納め方は、岡崎(徳川信康)、吉田(酒井忠次)、浜松(徳川家康)の3ヵ所に分けているが、中心的なお城は吉田城になる。従って、「酒井忠次の下に入ってみんなが動く」というような形で動いており、この戦いの中で酒井忠次は鳶ヶ巣山への奇襲攻撃を進言し、自分の支配が及ぶ東三河の武将たちを連れて実際に参加した。
 ある意味少し残念なのは、いわゆる主戦場である設楽原で鉄砲を撃ったりしている中には東三河の人たちがあまりいなくて、みんな鳶ヶ巣山の方に来ているというのが一つ言える。そういった意味で、この東三河の人たちもこの戦いの中の一番重要なところ、この鳶ヶ巣山の奇襲攻撃をしたことによって武田軍が攻めるというようなことに持ち込んでいっているので、非常にこの戦いの中で重要な場面をこの東三河の武将たちがやったということが言える。最終的にこの戦いで、連合軍は5,000人、武田軍は10,000人、両方合わせて15,000人が亡くなり、非常に戦死者の多かった戦いでもあった。
 この戦いの一番果たした大きな役割は、当然日本の歴史の中では信長が大きく飛躍していくきっかけになったという部分があるが、私たち地元から見た場合、いわゆるこの東三河の戦国を終わらせた戦いだったと言える。この戦いで大勢の戦死者を出したが、ようやく平和が訪れた戦いでもあったのだと思う。この戦い以降、徳川家康が、信長がどんどん天下統一に向けて進み、武田軍は一旦何とか盛り返すが、徐々に衰えていくという形で、大きく歴史が動き始めていく大きなきっかけにもなった戦いであった。