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産学官民交流事業

2024.04.05 第241回東三河午さん交流会

 

1.日 時

2024年4月5日(金)11:30~13:00

2.場 所

ホテルアークリッシュ豊橋 4階 ザ・テラスルーム

3.講 師

鳳来寺山自然科学博物館 学術委員 中西 正 氏

  テーマ

『ピースボートで 見たこと・聞いたこと・考えたこと』

4.参加人数

 41名

講演要旨 
 ピースボートでオセアニアを一周してきたため、本日はそれに関しての話をする。流れとしては、最初に行程を見て、それぞれの場所の説明をする。次に船の生活の話をする。最後に、船内でどのような時間の使い方があるかといった話をする。
 行程は横浜から出て、中国、東南アジアを経由してオーストラリアに行き、南半球の諸島を経由して横浜に帰港するものである。出発は2019年12月21日、帰ってきたのが2020年の2月15日であり、コロナ禍となる直前のタイミングであった。
 最初は中国のアモイに着いた。このときには福建土楼というアモイから4時間ぐらい内陸に入ったところへ行った。船での旅行の場合、当然港湾に寄港し、そこでほぼ1日停泊する。そのため、通常1日で行って帰ってくることが可能な場所を訪れる形になる。そうしたツアーは一般的にオプショナルツアーとなっており、ここの場合でもコロンス島とか、あるいは地元の家庭に入って食事をするとか、日本語を習っている学生さんと一緒に過ごすといったようなものなど9コースぐらい作られていた。それぞれの寄港地でこうしたオプショナルツアーが企画されている。
 次はフィリピンである。セブ島に着いて、その目の前にあるカオハガン島に行った。島の一部は、砂が奇麗なビーチである。実はこの島は崎山さんという日本人個人が所有している。人口は200人ぐらいであるが、結果的にはこの崎山さんが地元の人の教育や保険関係など面倒を見ているようである。
 次に行ったのがインドネシアのバリ島である。いろいろな寺院の見学をし、オプショナルツアーで行ったメンバーが先が尖った槍を持っているが、戦いに行くわけではなく、実はこれでゴミ拾いをしている。日本だと挟んで拾う感じだと思うが、ゴミを槍で突くのである。瓶みたいなものは難しいが、紙類や缶類はこれで突いて拾っていた。こちらは景色が奇麗なインドネシアの田舎の村でゴミを拾っているところであるが、アメリカ人のキアラさんという夫妻が、「ここは奇麗な所なので何とかしたい。どうしたら良いか。ホテルを建てて人を呼ぼう。地元の人にはゴミ拾いの習慣を持ってもらおう」との想いでここにホテルを建てた。この夫妻は、それ以外に学校も作っている。グリーンスクールといって、環境面に特化した学校として、世界中の40カ国ぐらいから生徒が来ている。小学校から高校生ぐらいまでを教育しており、日本人も18人いると聞いた。このグリーンスクールの建物は、3階建ての校舎が全部竹、教室も竹でできている。こうした特徴のある場所を見に行った。
 そこからオーストラリアに行き、パースの近くのフリーマントルを訪問した。こちらは入植時代からの建物が残る魅力的な港町で、南極観測船「しらせ」が最後に立ち寄るところである。パースはオーストラリアの西側であり、船はオーストラリアの南側を廻り東へ航海していった。
 ここで私はウルルへ行った。ウルルはオーストラリアの内陸にあり、1日では行って帰ってこられない。一度船から離れて5泊程した。こうした旅行の仕方は、オーバーランドツアーと言ったりするが、飛行機を使うと時間が稼げて、内陸に入っていけるということであり、ウルルを訪問した後は船の寄港地へ行って合流し、また船に乗るという形である。ウルルは以前、エアーズロックと言われていた場所であるが、エアーズロックという名称を今はほとんど使わない。ウルルはアポリジニの人たちの聖地だから、もう登らないようにしようと現在は登ることもできない。私たちが行ったときの1ヶ月前ぐらいに登らないという規制がちょうど発効していた。内容は10年ぐらい前に決定したようであるが、現地の人にこの場所自体を返却し、今政府がそれを借りて観光資源にしているということである。
 次にアデレードへ行った。アデレードの植物園には大きな温室があり、魅力的な特徴のある外観を写真に撮った。この周辺はブドウ畑が非常に多くあり、オーストラリアの南部にはブドウ畑が拡がっている印象を持ったが、植物園のところにあるアデレード大学には醸造学科があるとのことであった。
 次は東へ行ってメルボルンである。メルボルンの港は、川の河口にあるために港の浚渫したところが航路になっている。そのため、入っていくときに慎重に入港する印象を受けた。入港する際は、メルボルンの街がまず小さく全体が見えてそれが徐々に大きくなっていく。街全体が見えるということで、本来は港が正式な玄関だと再認識した。船が進んで行くと、街の全体像がとても良く理解できる。街へ飛行機で訪れることが多いと思うが、あれは勝手口から入る感じではないかと思った。船の旅は時間がかかるが、こうした良さがある。
 次はシドニーである。シドニーは深い入り江になっており、その一部にオペラハウスがある。さらにその後ろに都市のビル群が存在するといった感じであった。
 タスマニア島にも行った。タスマニアにはユーカリの大木の森がある。オーストラリアは、何となく環境に全て特化したような感じの国かと思うかもしれないが必ずしもそうではなく、こうした大きなユーカリを開発から守るというせめぎ合いが起きていたりする。60メートル以上の高さがあって、日本の杉で一番高いと言われる「鳳来寺の傘杉」よりも高いような木が森を作っている。こうした森を守るために、地上50メートルぐらいのところにツリーハウスを作って暮らしていた人がいたということである。森の下の方は木生シダがあり、熱帯雨林のような雰囲気になっている。
 次はブリスベンである。ブリスベンはこの大きな川の岸辺にある街である。街が川に沿って作られてるような感じで、フェリーで上下する。左右岸の間を渡るのもフェリーということで、まるで動脈のようになっている。フェリーは渡し船とは全然違うデザインで、機能も全く違う感じであった。ブリスベンについて、日本人はあまり耳にすることがなく、詳しい場所もわからないかもしれない。しかし8年後はかなり頻繁に耳にする地名になる。というのは、オリンピックが今年はパリ、4年後はロサンゼルス、そしてその4年後はここのブリスベンで開催されるからである。ここからオーストラリアを離れてニューカレドニアに行く。
 ニューカレドニアは、「天国に一番近い島」とのキャッチコピーで有名になったところであり、バヌアツはここの大きな港である。とても大きな客船が寄港しているが、コンテナなど貨物の置かれている量が少なく、経済規模はこの程度だろうかと思ってしまった。
 次に訪問したガダルカナルもバヌアツよりは貨物量が多いが、それでも少量であった。皆さんはガダルカナルという名前は聞いたことがあると思う。第2次世界大戦で日米が戦った激戦地であり「血染めの丘」に戦死した日本兵の記念碑が建っている。すぐ近く、ひとつ谷を越した向こう側にはアメリカの「血染めの丘」の記念碑があったりする。近くにそれぞれの陣地があり、戦争のやり方が戦国時代と同じような感じであったのかなという印象を持った。
 次がラバウル、こちらも戦跡になる。ラバウルには日本の航空隊があり、当然飛行場もあった。ところがその飛行場は見る影もなく、恐らく火山活動によって埋められてしまっていて、大変なところに飛行場を作ったという印象を持った。島全体がカルデラになっていて、ちょうど鹿児島の錦江湾のような形で、深い海のところに桜島のような火山があるといった地形のところに飛行場があったのである。ここまで行程を説明してきたが、それぞれの訪問地に何か意味がある内容が多くありそうな気がした。深掘りすると興味深いことが出てくるのではという感じを持った。
 続いて船の中の生活ということで、もしかしたらこのあたりが皆さんは聞きたいのかなとも思っているが、船の中の部屋がどのようになっているかとか、食事がどのような感じとか、健康管理をどうしているかなどの話をする。ここからは「今回のオセアニア一周」の旅だけでなく、船の一般的な話をしたい。私たちが乗った船は、オーシャンドリーム号という3万5千トンの船である。実は廃船になっていてもう存在しない。全長は200mと大きく、高校の広いグランドに斜めに入れてもはみ出すぐらいの大きさである。最近の客船は10万トンぐらいのものも珍しくなく、中のサービスのレベルも船によって異なっている。オーシャンドリーム号を船のビジネスホテルと例えると、10万トンクラスの船はハイブランドのラグジュアリーホテルといった感じである。
 2人部屋以外に4人の相部屋もあり、若者でも乗れるようにしている。食事はバイキング形式が多く、自分の判断で摂ることとなる。豪華客船の食事を思い浮かべて、コース料理が毎日続くというイメージを抱くかもしれないが、普通の食事である。乗船前は食べ過ぎて体重がどうなってしまうかと危惧していたが、その心配は杞憂に終わり、下船したときも私自身の体重は変化していなかった。夕食は一応コース料理になっていて、前菜・メインディッシュ・スープなどがあり、オプションとしてビールなどのアルコールも楽しめる。また正月には、おせち料理や暖かいお餅も提供された。
 健康面を意識して、皆さん結構運動をされていた。甲板では、私は参加しなかったが朝日を浴びながらの太極拳に多くの人が参加していた。私はその後のラジオ体操にほぼ参加していた。それ以外に専用のポールを使用したノルディックウォーキングで甲板を廻る運動をしており、船の中の移動もエレベーターは使わず、階段を使うように意識していた。
 1,000人の乗客のうち、950人は日本人であり会話は日本語で通じた。残りの50人が中国・香港・台湾・韓国などから参加していた。人数は少ないが、耳を澄まして聞いていると中国語がよく聞こえてきた。たまたま食事で同じテーブルになった中国人は、北京の教育関係の方で非常に穏やかな人たちであった。乗客の年齢は平均65~70歳ぐらいだと思う。中には90歳を越した方も数人おり、20代・30代も少しいるといった感じであった。
 船に乗っている時間がとても長く、船に乗っている間は何もやることがなくて大変じゃないかと皆さん思うかもしれないが、実は時間を使うことが沢山ある。例えば講演会が多く企画されていて、その講演会を聞く人や、自主企画として講座を開く人も多かった。得意なところを、みんなと一緒にやろうというものもあり、それを聞くという場面もある。また、自分の趣味だけに没頭することも可能である。中には海をずっと見ている人もいた。クジラやイルカがいたりするので、そうした生物を探すことを生きがい感じているのだろう。
 例えば高師地区市民館は毎日4つぐらいの講座があり、参加者募集のポスターが貼られている。そうした施設と何となく似ていて、船は大きな地区市民館のようなものに感じた。例えばピースボートの中で自主的に講座を開きたいと考えた場合、開催可能な部屋などの場所は7カ所あったため、そちらを時間ごとの空きを確認して予約する形になる。こうして、1日に全体で50から60ぐらいの講座数があるといった感じであった。私もノルディックウォーキングの講座を受講してインストラクターに歩き方を詳しく教えてもらった。今も習慣となりストックを持って歩いている。オカリナを演奏するグループの講習でオカリナを教えてもらって、現在もオカリナを吹いており、友人が毎月一回ライブをしている会場において、オカリナを演奏している。ギターを持ち込んで皆さんと一緒に歌う人、水彩画の展覧、手芸の展覧、書道など学校の文化祭のような感じでいろいろな発表がある。花傘音頭のような踊りのグループ、一人芝居といった文化祭のようなこともできる。私は自主企画として10回以上植生の話として、愛知県の自然、日本の自然であったり、船で行った場所において目の前の自然を解説したりしたが、その中の1回は参加者が自然保護に関係している人が多くいたため、その人たちを集めて15分ぐらいずつ話してもらう企画を行った。北海道の北見・栃木県・東京都・神奈川県・愛知県など私以外の参加者に話してもらうと、一度に日本規模の話が聞くことができるという面白さがあった。また一気に北海道から沖縄まで日本全国に知り合いができる場所でもあった。
 それ以外にも船に乗り合わせた演奏家の音楽を聞く時間や、ピースボートが用意した講師の講演もあった。例えばアフリカでツアーのガイドをしている人が講師に呼ばれ、ツアーガイドのときに撮った写真を見せながら、アフリカの良さ、自然保護、暑い中での過ごし方などの話を、何回かに分けて聞くことができるものもあった。他にも髙橋和夫さんという中東研究をされている国際政治学者を講師に、インド洋から紅海における海賊の出没や船の警備を自衛隊が行っていることなど中東情勢の講演もあった。最近のパレスチナ問題において、高橋和夫さんがテレビで解説している姿を見ると、とても懐かしく感じる。イレギュラーな感じの講演としては、ウルグアイの大統領であったムヒカ元大統領が講演してくれたこともあった。お酒を飲むのも良く、東海地方の人で集まって持ち寄ったワインの試飲会のようなことにも参加していた。いろいろな時間の使い方が可能で趣味を深めることもでき、そうした場所としてピースボートは非常に良い場所だと感じている。
 最後に付け加えると、講座もツアーにしても支えてくれているのは若い人たちである。帰国子女として長く海外に滞在経験のあるような感じで、2カ国、3カ国の言語を話すことができるバイリンガルな若者たちである。こうした若者がボランティアで実際の多くの行事を下支えしていて、異なる文化や背景で乗船してくる参加者や現地の人との懸け橋になれるよう日々船内で活動している。ラバウルでも現地の長老や女性が話をした内容を通訳して私たちに伝えてくれていた。彼ら若者のことをコミュニケーションコーディネーター(CC)と呼んだりしているが実際の講演会の日本人ではない講演者の話も、同時通訳のような形でこの若者たちがやってくれている。彼らの話を少し聞くと、友達はリオデジャネイロにいて一昨日はニューヨークに行っていた。次はどこで会おうねといった形の地球規模で動く話をしており、年配の日本人とは感覚が全く異なる印象である。
 ピースボートをきっかけに私は趣味としてノルディックウォーキングやオカリナをやるようになって良かったと感じているが、同時に将来の日本を支えるのは船で出会った国籍などに縛られない若者ではないかという感想を持った。実は最近、私以外にもピースボートへ参加して本を書く人が何人かいて、何冊か読んだがその著者も私と同様に、国籍が分からない、縛られないような人たちがこれからの日本を支えるのではないかと書いていた。こうした若者への印象と期待が大きく残ったということで、本日の話を終わらせていただく。