2025.7.22 第489回東三河産学官交流サロン
1.日 時
2025年7月22日(火)18時00分~20時30分
2.場 所
ホテルアークリッシュ豊橋 5F ザ・グレイス
3.講師①
愛知大学 文学部 教授 近藤 暁夫氏
テーマ
『伊能忠敬の東三河』
講師②
(株)渥美フーズ 代表取締役社長 渡会 一仁氏
テーマ
『「地域スーパー×循環農業」とは?』
4.参加者
65名(オンライン参加10名含む)
講演要旨①
伊能忠敬は、日本全国を測量して初の実測による日本地図を作った人として有名であり、地理の関係者では唯一日本の小学校や中学校の歴史の教科書に載っている人物である。東三河にも隠居する前から何度も足を運んでいるが、地図を作っていた時は隠居して伊能勘解由を名乗っており、正式には伊能勘解由による地図作成事業になるが、今回は煩雑を避けるため伊能忠敬に統一して話をする。人生が充実している先駆者としても伊能忠敬は最近注目を浴びており、晩年になるほど充実した人生を送ったように思われる。
伊能忠敬はもともと商人であり、産業界の人であった。また、教科書に載るような学者として名前を残しており、村の役人から最終的には幕臣になり、地図作成作業は江戸後期の幕府の一番大きなプロジェクトであったが、現場責任者として全部やっている。伊能忠敬は大変有名な人であるが、特に人生100年時代というところにおいて、商人とか名主という形が前半生で、隠居して50歳をすぎて学者になり第二の人生を充実させた。実際は、伊能忠敬が晩年に娘に宛てた手紙に書いてあることでは、伊能忠敬は若い時から学問やりたかったが、家が貧しく親の意向で不本意ながら養子に入って頑張ったという話を書き残している。伊能忠敬の残した文章を見てみると、あまり学問的な切れ味はなく、むしろ愚直にコツコツとやっていく性格が感じられる。前半生商人として一生懸命やって、その資金と人脈で精一杯頑張ったということが彼を大成させた要因ではないかと思う。
伊能忠敬が弟子入りした高橋至時は、当時日本一の天文学者、地理学者であった。高橋至時は19歳も年上の老人が突然弟子入りを志願してきて断りたかったようであるが、伊能忠敬は老練な商人であるため、各方面に手をまわして正確な記録は残っていないが、高橋至時の上役にあたる若年寄の堀田正敦からの口利きという形で高橋至時が断れないような形にして弟子入りしたと言われている。ただそこからはやっぱりお金持っており、高橋至時のような学者はあまりお金がないため、天文台などに資金を拠出して伊能忠敬自身が頑張ったこともあり、高橋至時との子弟関係は非常に充実したものになったのは結構有名なエピソードである。実際現在、東京に伊能忠敬の墓と高橋至時の墓が並んで建っているが、これは江戸時代の身分制から言うと、いわゆる旗本である高橋至時と、幕臣ではあるが一番下の身分である伊能忠敬の墓が隣に建っているというのは非常に異例なことである。
伊能忠敬自身は一説によると、現代の貨幣価値換算で大体40億円ぐらいお金を貯めたということである。米の相場などで儲けたようであるが、ただ儲けるだけではなく飢饉になったら貯め込んでいた米を周辺の貧窮した人々に分け与えたとも伝えられている。伊能測量は1800年に開始され、1816年まで10回にわたって全国を測量するという形であった。初期は伊能個人の事業であったが、途中の幕臣に登用された1804年以降は、11代将軍の徳川家斉の上覧を受けて、幕府の直轄事業として西日本測量などが行われている。1818年伊能忠敬は地図作成作業の途中で亡くなり、高橋景保を中心に地図の作成作業が進められて1821年に完成した。詳しいことは不明であるが、地図を張り合わせる場合に日本全図を作るためには地球の丸さを考えないといけないが、伊能忠敬は地球の丸さを考えずに地図を作り続けて、最後接続する時にうまく接続ができなくなってその間に寿命が来てしまったとも言われている。上役であった高橋景保が投影法を理解しており、地球の丸さを数学的に計算して作り直して最終的に上程したと言われている。
上程から7年後、医者であるシーボルトが、ドイツ人であるのにオランダ人になりすまして日本に入国し、オランダからはいわゆるスパイの密命を受けた形で、伊能図を持ち出そうとしたスパイ行為が発覚して国外追放になった。つまり伊能図は、オランダが喉から手が出るほど欲しかったというような価値のあるものでもあった。この伊能図は、大図、中図、小図という3つに分かれており、中図と小図は書き写すことが比較的容易であるため多く存在するが、大図は縮尺が3万6千分の1であり、普通に接続すると50メートル四方ぐらいの巨大なものであり、とても書き写せないということで2冊しか製作されなかった。その正本が1873年に焼失してしまい、東京大学に保管されていた副本も1923年の関東大震災で焼失してしまい、伊能大図の全体像は不明な点が多かった。ところが2000年代に入って、陸軍が明治の初期に模写したものがアメリカに流出していたことが判明した。その結果、幕府の老中クラスでなければ見ることのできないような伊能大図が、現在では国土交通省国土地理院のホームページから簡単に見ることができるようになっている。
そのアメリカで見つかったものの一つに、この東三河を含むものがあり、伊能忠敬が116号というナンバリングをしていて、原本は畳1畳ほどの大きさがある。陸軍がおそらく近代地図を作るための参考に必要な部分だけを模写したものであると思う。実際の伊能大図はもっと彩色があって綺麗であったと言われている。アメリカに渡った経緯は明らかではないが、戦後のGHQが関係しているかもしれない。これはアメリカ議会図書館のホームページに全部PDFファイルで公開されている。また、これと日本に残っていた伊能大図をもとに独自に彩色を施したものが国土交通省国土地理院のホームページの古地図コレクションというページから全国分を閲覧できる。
伊能大図第116号「吉田」の特徴と謎について考察する。測量しなければならない街道沿いを調査しているが、他の場所でも見受けられるが結構神社に寄り道している。「吉田」でも砥鹿神社(三河一宮)に寄り道しているが、その表記が「二宮」になっており、1811年4月3日の伊能忠敬測量日記では「吉田領一宮村。一宮祭神大巳貴命」と正確に書かれているため、書き間違いと思われる。他にも豊川稲荷が「記載なし」であり、1808年2月13日の伊能忠敬測量日記では「豊川村稲荷の社あり、国々ゟ〔より〕参詣群衆のよし。古宿村〔宿所〕入口ゟ三四町なれハ立寄て一見しぬ。」と書かれている。商売の神様(伊能は商人)の上に参拝までしているのに欠落させたのは謎である。また、佐久島・日間賀島・篠島が未測量で、1803年の測量時に船を手配できなかったようである。しかし、瀬戸内海は無人島まで全部測量しているのと比べて、有人島で簡単に行けるこの3島を、その後の来訪時に再測量しなかった理由は不明である。次に、現在の神野新田町の名所に、「水中洲」という干潟が特別に描画されている。海岸線より海側のところは全く書かないのは伊能大図の基本的なスタンスであり、伊能大図の「有明海」には干潟がまったく描かれていない。このように干潟の描画に極めて冷淡(『大日本沿海輿地全図』の名から当然)な伊能大図で、「吉田」にのみ、なぜ干潟が描かれたのか疑問である。同様に、「立岩」という内陸の岩も特別に描画されている。海中の岩礁(島)以外ほとんど岩を描かず、山が写実的に書かれているのは富士山と浅間山だけで、他の内陸の山をほぼ同一表現をしている伊能大図において、「立岩」が例外的に絵画的に特記されているのはなぜであろうか。
伊能測量隊には「水中洲」と「立岩」を描く積極的な理由があり、その背後には伊能測量に関わる東三河(吉田)の人々の存在があったと考えられる。一番大きな理由は、当時の吉田藩主大河内松平伊豆守信明の存在であり、彼は伊能測量時に老中首座という幕閣トップであった。忠敬没時の小宮山楓軒『懐宝日札』の記述によると、蝦夷地測量の結果を最高責任者である大河内松平伊豆守信明に報告し、全国測量ができると判断されたため、全国測量を開始できたと当時伝聞で言われていた。記録は残っていないが、実際そうであった可能性は十分あると思う。大河内松平家には伊能図一式中図が伝来しており、現在は東京国立博物館に一式が収蔵され、国の重要文化財になっている。これは現存する伊能図の中で美術的価値、絵画的な美しさに関しては随一と言われる一品である。このように、伊能らは吉田藩松平家に大変気を使っており、その一環として伊能図中に「水中洲」と「立岩」を特別に描いたのではないかと思われる。
他にも吉田在住の和算家斎藤一握父子の存在がある。伊能忠敬測量日記によると、1801年の第2次測量中に早くも遭遇しており、親交を深めて測量などの話で盛り上がったようである。1803年に三河湾沿岸を測量した折に再開しており、この時は斎藤親子の住む吉田船町の龍雲寺に3日宿泊している。この時、当地の地理について斎藤親子から忠敬に提供されたと考えられ、これが「水中洲」などの伊能図の描写にも影響を与えていることが想定しうる。「立岩」を測量した時も同様に龍雲寺に宿泊している。このように伊能忠敬が重要視した「吉田」であるが、その吉田城には他の藩では書かれている城主の名前が書かれていない。このまま幕閣に上程すれば間違いなく大問題になる。伊能らの手による原本である幕府に上程された東日本版の伊能図、これは現在国宝に指定されているが、伊能忠敬記念館に残っているこれには「松平伊豆守居城」と城主名が書かれており、最終提出版で抜け落ちるとは考えられず、おそらく明治初期の模写段階で抹消されたと思われる。他にも彦根城など城郭名がない城が18城ある。これらは城主が大物すぎたゆえに模写段階で抹消されたのではないかと思う。
伊能大図第116号「吉田」は、200枚以上の伊能大図があるが、その中でもこれまで話をしたように特別な配慮が感じられ面白いものになっている。伊能忠敬の測量は非常に精密に実施されており、国際的にも高い評価を受けている。近代地図は何か数学的な正確性が重視され、無味乾燥な印象を持つことが多いが、伊能図はとても人間臭い。いたずら書きのように書かれている部分もあり、細部は意外と雑な部分もある。精密さと人間臭さの同居が伊能図の魅力で、そうした文化的意味においても最も優れた前近代的地図の一つと言える。その中でも、東三河の伊能大図第116号「吉田」は、特別な配慮が感じられる非常に面白いものになっており、私自身見飽きることはない。
講演要旨②
最近はオアシスファームという農業事業に注力している。採卵鶏と肉用の鶏合わせて1,300羽を飼育している。和牛は、黒毛、赤毛、短角、無角と4種類あり、そのうち98%は黒毛和牛である。オアシスファームで飼育している短角和牛は和牛全体の0.39%、国内に7000頭しかいない。太平洋側で牛舎もなく、荒れていた耕作放棄地の草を刈り、木を切って自分たちで電気柵を張りそこに子牛を放しているが、去年300㎏で春に入れた子牛が今800㎏ぐらいまで成長しており、耕作放棄地に生えていた草だけで大きく育っている。9月に一頭屠畜して、地元で育った放牧牛がどのような味なのかを確かめて皆さんへの販売戦略を考えていく段階である。オアシスファームは、農地を14ha購入して借りている農地と合わせて18haを管理している。
去年の5月までは私1人で農業をしており、現在週に1度か2度、社員に2人ずつ交代で手伝ってもらう形で運営している。オアシスファームでは、「低投入」、「内部循環」、「自然共生」の3つをテーマに農業をしている。コロナ禍で出社が難しい時期もあり、その時始めたのが農業であった。「低投入」、「内部循環」、「自然共生」というのは、農業を始めた頃に先輩農家さんから「現代農業」という月刊誌のバックナンバーをもらって読んだ時に、有機農業の3原則とは、「低投入」、「内部循環」、「自然共生」の3つであると農業界の立派な方が書かれており、それまで何となく有機農業は、農薬かけないとか、化学肥料を使わないといったぼんやりとしたイメージであったが、私自身腑に落ちて納得し、自分の農業もこうありたいと考えるようになった。「低投入」として、「なるべくお金をかけない」、「人手をかけない」、「エネルギーを使わない」ということを心がけている。「内部循環」は「地域循環」や「国内循環」と呼び変えても良いが、社内や地域にあるものを循環できないかという視点である。今、果樹と養鶏と畜産をやっているが、買うものは果樹の苗と鶏のヒナと子牛だけであり、餌は購入しない。鶏は何で育っているかというと、社内や地域から出る生ゴミなど食品残渣だけで鶏を飼っている。また牛は小松原に生えている草だけで育っている。果樹は鶏を飼っているので、鶏糞と食べ残したものを堆肥化してそれを元肥で最初与えるだけで、追肥もしてない。このように地域にあるものでやっていこうと進めている。「自然共生」は、株式会社渥美フーズが28年前から毎月食の勉強会を開催しており、今も全国から生産者などを講師に招いて、社員とお客様が一緒に勉強している。SDGsが言われる前に、ピーターD.ピーダーセン氏から学んだ3つのことがずっと教えになっている。1つ目が「なるべく火を使わない。」、2つ目が「なるべく生き物を殺さない。」、3つ目が「なるべく毒を出さない会社」である。毒を出さない例をあげると、渥美フーズの社内では合成洗剤は使わず、約28年前からずっと石鹸と重曹を使っている。当社と同規模のスーパーや飲食店で合成洗剤を使わずに石鹸や重曹で操業している企業は存在しないと思う。というのは、石鹸は合成洗剤の10倍ぐらい高いコストがかかるからである。もう一つの事例として、割り箸がある。大体99%ぐらいのお店が中国産の割り箸を使用している。当社がお客様にずっとお付けしている割り箸は、徳島の池田町の間伐材の杉、檜を材料に、ハンディキャップある方たちが作ったものであった。中国産の2円に対して4円と倍の価格であるが、我々としては森を守り、ハンディキャップのある方たちの暮らしを守るということでそうしたものを選択している。こうした取組を当社は見えないところまで配慮をして継続しているが、こうしてお話しするとあらためて伝えるのが下手だなと思う。というのは、自分たちでは当たり前になっているため、話をしないと誰も知らない。お寿司のコーナーにお寿司買った人は自由にお取りくださいと置いてあるお醤油も天然醸造のお醤油である。一般的な店舗では、だし、加工大豆にアミノ酸を添加してカラメル色素で色を着けたお醤油を付けているのが実情である。こうしたことが当たり前になっている会社であるが、今は会社の経営自体も低投入、内部循環自然共生ということを意識して経営している。
渥美半島の観光を考える上で、サーフィンしない、船に乗れない、釣りをしないというのでは渥美半島の観光は語れないと思い船舶免許を取得した。その後船にはほとんど乗っていなかったが、知人からヨットを譲り受け、ヨットに乗って海の上から渥美半島を眺めていた。暮らしていると分からない渥美半島の存在の大きさや良さを感じて自分の中に郷土愛が生まれてきた。あらためて渥美フーズの「渥美」は唯一のアイデンティティであり、それを真似する企業は出てこないだろうし、これほどに豊かな農地は全国に存在しないことに気が付いた。豊橋に比べると渥美半島の先端は2から3度暖かく、冬も霜が降りなくて、豊川用水の水が全部の畑に潅水があって行き渡っている。全国の方と話すと驚かれることも多く、当たり前だと思っていたことが、他の地域では当たり前ではないと、あらためて地元の良さに気が付いた。
コロナ禍1年目の秋に、若手の幹部社員6人に、5年後の渥美フーズのビジョンと成長ストーリーを考えてほしいという宿題を出して、3ヶ月間毎週打ち合わせをして発表させたところ、出てきた発表の内容が「エコサークル」という考え方であった。「エコサークル」とは、持続可能な社会の実現に取り組む人や企業を有機的につなぎ、豊かで幸せなエコロジー、エコノミーを循環させる活動というように定義されている。それまで渥美フーズは、全国や世界からおいしい安心・安全なものを集めて提供していたが、あらためて持続可能社会の実現という形で、人や企業をもっと有機的につなぎ合わせていくことをしようと決めた。その後、経営ビジョン、中長期のビジョンを合宿して幹部で新しく作り直したものが「2035年渥美半島エコガーデンシティ構想」である。2035年の渥美半島は山や海のおいしいものがあふれるオーガニック半島になっていて、食や自然での遊びの達人やエコサーキュラーというエコサークルの活動を実践する人が集まって食やエネルギーを循環させ、エコツーリズムで長期滞在できる地球に優しいオアシスを目指しますというのが、渥美フーズの2035年までのビジョンである。伊良湖の海の魚も昔と比べると本当に減ってしまっているが、できることを我々はやっていこうと考えていて、お店としてはビオアツミがエピスリー型店舗ということでなるべくゴミを出さない取組を提案するお店として2020年に愛知環境省をいただいている。次に店内から出る食品残渣を活用しようということで、オアシスファームを立ち上げた。最近では「あつみの市レイ」というリノベーションしたショッピングモールも手掛けている。
オアシスファームを始める前は、自社のスーパーやレストランから生じる野菜くずなどの食品残渣は回収業者に依頼して焼却処分していた。食品残渣とはいっても新鮮なものばかりである。幼少の頃より、創業時の苦労を知る祖母から「もったいない」という気持ちを大切にする教えを受けた私にとって、何とかしたいテーマの1つであった。そこで、まずは自社でこれらを堆肥化することを試みた。未利用の牛舎跡を借り受け、軽トラックで店から食品残渣を運び、来る日も来る日も試行錯誤を繰り返した。その過程でウジ虫が大発生した折には途方に暮れたが、そんな時に知人の助言で試しに数羽のニワトリを放してみたところウジ虫はゼロになり、新鮮な卵というオマケまで手に入る偶然に出逢うことができた。以来、「ムダなものなんて、きっとない」という信念のもとで、食品残渣や遊休農地といった地域の未利用資源と家畜を組みあわせながら、食品スーパーである私たちなりの循環型農業に取り組んでいる。毎日400㎏のゴミを1日2回、軽トラに400キロのゴミを1回では乗らないため、1日2回運んで、奥行き50メートルの置き場所は今の渥美フーズ全体のゴミだと10日ぐらいでいっぱいになる。スーパーから出る1㎏のゴミを処分しようとすると1㎏あたり20円から30円の処理費がかかり、スイカなどはあっという間に10㎏20㎏のゴミになり結構な金額になっていたが、それが今鶏の餌になっていてほとんど鶏が食べている。残ったものは鶏糞と発酵させて今はたい肥にしている。鶏舎は嫌な臭いがしない。人間と一緒で、腸内環境が良いと鶏の糞もあまり匂わない。卵が1日600個ぐらい生まれており、「めぐるたまご」として1個90円程度で販売している。レモン畑とオリーブ園で鶏の放牧をしており、今なるべくオスメス同じ数を仕入れて、オスは150日で「めぐる放牧鶏」として販売している。
牛を飼うとは思っていなかったが、たまたま京都府綾部市で放牧をされている氏本さんに出会い、いろいろ教えていただきながら現在進めている。最初に北海道から3頭子牛を連れてきて、単管を組んだ電気柵の学習をさせた。それにより、細いワイヤーが張ってあるだけで牛たちは逃げなくなる。牛舎はなく、牧場内にある森の中が彼らの牛舎で、牛たちは自分の好きなところで寝たり休んだりしている。今年の春には4頭子牛を入れて全部で7頭になった。牛の良いところは、本当に草しか食べないため事故がない。牛は本当に匂いを嗅いで安全な草か確かめて食べてくれるので、飼育のしやすさでは牛が一番という印象がある。他に、果樹を今2,300本植えており、毎年1,000本ずつみかんを増やして渥美半島オーガニックオレンジジュースを産地化しようと思っている。20種類ぐらいの果樹を植えているので、農業始めてほぼ4年目であるが、これからいろいろな実がついてくるのを楽しみにしている。
オアシスファームでは、みんなで育む農場を目指して定期的に体験型ツアー「エコサークルツアー」を開催している。実際に、農場の空気に触れていただくことで言葉では表現しきれないものをお伝えできれば良いと願っている。例えば、「産みたての卵は温かい」「牛が雑草を喜んで食べる」といったことも、言葉にすれば当たり前のであるが、実際に体験をしてみると新鮮な気持ちになる。昨年春スタートした時は参加者を集めるのに苦労したが、今年に入ってからは募集をかけるとすぐに満員御礼という状況になっている。食の勉強会を30年近く実施してきたが、自分たちが今まで何十年間も食べてきたものについてまだ知らないことが多い。渥美フーズとしては、食に携わる身として、地域の食と健康を育むというのを経営理念に掲げており、お医者さん以上に我々は大事なのだと社員に話をしている。食品ローカルスーパーだからこそできる循環農業を軸に、「2035年渥美半島エコガーデンシティ構想」として、子どもたちの世代までおいしくて安全な水や食料を届けられるようにやっていきたいと思っている。