2026.2.24 第496回東三河産学官交流サロン
1.日 時
2026年2月24日(火)18時00分~20時30分
2.場 所
ホテルアークリッシュ豊橋 5F ザ・グレイス
3.講師①
豊橋技術科学大学 建築・都市システム学系 教授 浅野 純一郎氏
テーマ
『豊橋市を事例に考える、人口減少時代の都市のかたち』
講師②
あいちの宝物 共同代表 武谷 弘隆氏
テーマ
『地域の原石を、世界の宝物へ
~あいちの宝物が生み出す人と産業の好循環~』
4.参加者
52名(オンライン参加3名含む)
講演要旨①
私は都市計画が専門分野であり、全国の地方都市を対象にして研究をしている。主にやってきたのは都 市計画の中でも一番根幹的な部分となる土地利用計画である。他に博士論文のとりまとめをきっかけに 近代都市計画史もテーマとしてきた。土地利用計画は現在の問題であり、近代都市計画史と本来接点はないが、私は工夫して過去の計画と歴史、経緯といったものを現在の課題につなげる研究をしている。本日は、①土地利用制度と立地適正化計画、②豊橋市の市街地形成経過とその特色、③人口密度からみる都 市構造の推移、④市街地形成経過とコンパクトシティの順で話を進めていく。
最初に土地利用制度の基本的枠組みの経緯であるが、現在機能しているのは1968年の新都市計画法制 定に基づく土地利用制度で都市計画行政が行われており、区域区分制度(線引き制度)である。しかし、都市の形はこれ以前に決まっており、例えば豊橋の場合は城下町が起源となっていて、戦前都市計画、戦 後復興、高度経済成長を経て現在に至っているが、最近の問題として2000年以降人口減少局面となり、コンパクトシティをいかに作っていくかということで、立地適正化計画をどうするかといった話になっている。
都市計画制度の根幹は線引き制度であり、豊橋市の場合は、都市計画区域を市街化区域と市街化調整区域に区分するという線引き都市計画区域フレームとなっており、1968年の都市計画法で確立された制度で50年以上続いている。これに対して、縮小型の都市の形としてコンパクトシティということがいわれており、それは単にシュリンクするのではなく、極と極の間をつなぐ公共交通などのネットワーク、コンパクト+ネットワークという形をイメージしながら、これを支える制度として立地適正化計画が国を中 心に進められている。 多極ネットワーク型コンパクトシティは、極として都市拠点、地域拠点に生活サービス機能の集中化し、その中で歩いて暮らせる生活圏を作る形である。特に中心の都市拠点は、賑わいの核になり、これらをネットワークとして公共交通でつなぐ。
立地適正化計画の計画ツールとして都市機能誘導区域は、当該エリアに誘導する施設を設定し、福祉・医療・商業等の都市機能の立地促進を図るものである。居住誘導区域は、20年先ぐらいを見越して人が住むべき市街地のエリアとして居住を誘導し、人口密度を維持するエリアを設定するものである。極の部分と、公共交通でつながったネットワークの部分はフレームとして残すというシュリンクの仕方をモデルにしながら、立地適正化計画のモデル図が考えられている。しかし、現在は、緩い誘導として、なるべくそちらに向けるといった段階であり、強力な集約に向けての施策は行われていない。豊橋市の場合は、居住誘導区域をあまり縮めておらず、任意に「歩いて暮らせるまち区域」を設定し、分かりやすいイメー ジの将来市街地を描いている。これはフィンガー型で路線本数が多い公共交通を軸として、それに沿うよう な形で国土交通省が示しているモデル図に近いような形となっている。
豊橋市は都市計画のルーツが非常にしっかりしており、戦後から現在に至るまで都市整備が比較的しっかり行われた。この立地適正化計画もそうであるが、一連の計画が非常にこの流れを押さえた政策で進められており、良い事例であることは間違いないと思う。歴史的には、石川栄耀氏が最初のプランを書いているが、このように計画者の名前がはっきりしている地方都市はほとんどない。石川栄耀氏という 当時有名な技師が考えていた理想の都市構造を描くため、豊橋都市計画に採用したのが放射環状型の街路網であり、環状道路がカタツムリの殻のように中心から渦を巻くよう拡がっている。豊橋市はほぼそのまま街路ができて今日に至っている。 1948年の戦災復興都市計画においても、この街路が 近い形で温存され現在に至っている。他の都市の場合、都市計画道路を計画しても長期未着手のような状況になると計画変更があって形が大きく変わってしまう場合が多いが、豊橋市の場合はそうなっていないことが特徴である。
戦災復興について、戦災復興都市は全国に115市町村があるが、その中で豊橋市はその 面積が292.6ha とかなり大きい部類に入る。 中心部に大きな道路基盤が整えられており、非常に近代的な都市計画であって、中心部の防災性が高められている。こちらも1960年ぐらいには、ほぼ事業が完了しており、駅前広場、今の国道1号線である八町通りが整備され、周辺は低層の木造家屋が密集していた。その後は、戦災復興終わった時点で打ち切りではなく、土地区画整理事業として70年代を超えても継続され、市街地の比較的広い範囲が区画整理等の基盤を完備している点が特徴になっている。こうした基盤整備をやってきたため、石川栄耀氏の描いた幹線道路が区画整理やる時の基準線として残り実現してきた。これが豊橋市の特徴であり、現在にその骨格が引き継がれている。
ここで人口密度と、都市が無秩序かつ計画性なく郊外に拡大してしまうスプロールの捉え方を整理する。これはhaあたりの人口密度で、都市の人口密度や市街地イメージを捉えるものである。1 haとして100m×100mのマスを考えた場合、通常25%程度が道路や公園といった公有地であり、残り75%である 7,500㎡が民地である。これを1軒250㎡とすると30区画となり、1世帯3人とすると90人/ha、2人とすると60人/haとなる。国土交通省は、市街地としての最低限度の密度レベルを40人/ha、適正は60 人/haと示しているが、これらが高い数字ではなくかなり粗な状況であることがわかる。高度利用する時 は100人/haといわれるが、戸建てでも1区画200㎡を想定すると37区画となり、世帯あたり人口3人とすると117人/haであるため、100人/ha はそれほど非現実的な数字ではなく、それほど過密でもないといったイメージで捉えていただきたい。
農業基盤整備事業地に市街地が展開した場合は、これはスプロール市街地の扱いとなる。区画が大きすぎて市街地の区画になっていないために、個別開発が入って旗竿型の敷地がどうしてもできてしまう。通常この場合は、農地と市街地の混在になるため40人/haまで届かず20人/haから40人/haの間ぐらいでとどまるといった感じである。これが基盤未整備ということで大きい道路はあるが生活道路が未整備で狭く不正確、敷地が不整形形状となる場合が多い。
こうしたことを念頭に置きながら人口密度であの都市の形状をみるとどうなるか。豊橋市の密度構造の変化を考察する。1960〜1975年次では、既成市街地において100人/haの高密度市街地が広い範囲で面的に形成されていた。特に豊橋鉄道の路面電車線や渥美線沿線にかけて、帯状の高密度地帯がフィンガー状に形成されている点が特徴である。これは当時、モータリゼーションの浸透以前で、居住場所が公共交通に依存していたからである。2000 年次では、100 人/ha 超の地区が減少し、中心市街地での人口密度低下と 東部・南部での60人/ha超地区の拡大がみられた。2015年次では、2000年次の傾向がさらに進展したが、市街化区域内の多くの地区で、依然60人/haの比較的高密度な人口構造を保持して現在に至っている。
ここで他都市の事例を考察する。岐阜市は戦災復興を豊橋市以上にしっかりやって市電網も発達させ、1970 年までは区画整理を積極的に実施し、面的な基盤整備を行った。1970年以降は区画整理一切やめ、 農業基盤整備済み市街地を拡大した。2000年以降は路面電車を廃止して、自動車型の市街地となっている例である。同市では既成市街地における面的道路基盤が存在し、路面電車や民鉄による公共交通網の 充実により、1960〜1975年時では、既成市街地において高密度市街地が広い範囲で面的に形成されていた。2000年時では、中心部の高密度市街地は依然保持されていたが、郊外の広い市街化区域部では、密度上昇が波及しなかった。2015年時では、都市拡散が顕著となり中心市街地のスポンジ化が進み、郊外の中密度化と低密度・低未利用地の混在した状況となっている。
次に長野市は非戦災都市で、中心部の区画整理はない。区画整理をやらずに高度経済成長期の市街地拡大は郊外の公営住宅整備で受け止め、区画整理を本格化したのは1980年代後半から郊外の区画整理を中心に行った事例である。同市は1965年時に面的道路基盤がないものの、既成市街地には高密度市街地があり、民鉄沿線に高密度な線的市街地が形成された。 1975年時では、早くも中心部の密度低下と、郊外への60人/ha超市街地の拡散が開始。特に郊外の公営住宅団地開発が拡散化の苗床として機能した。2000年時では、中心部の低密度化が顕著となり、郊外での中密度化が進展した。2015年時では、都市拡散が進展し、密度的中心性が不明となり、特に郊外では 1980年代以降の区画整理地で密度上昇がはじまり、拡散化に拍車をかけている。
最後に秋田市は、豊橋市と同様に戦災復興都市であるが、北日本の都市ということ既成市街地の区画整理は少なく、圃場整備が初期から活発化しており、公営住宅団地開発や区画整理は1970年以降、郊外で活発化した事例である。同市は、1965年時に面的道路基盤がないものの、既成市街地(合併前旧町含め3カ所)には高密度市街地が形成されていた。1975年時では、早くも中心部の密度低下と郊外への40〜60人/ha 市街地の拡散が開始し、特に圃場整備がなされた市街地隣接部で顕著となった。2000年時は、圃場整備地、郊外公営住宅地、郊外区画整理地で人口増が進み、60人/ha超の台地状の都市構造が出現した。2015 年時では、既成市街地中心部での人口密度低下により、都市のスポンジ化が顕著となった。郊外開発地(ニュータウン)でも人口増の見通しがなくなっている。
このように他の地方都市と比較して考えると、豊橋市は比較的高密度な市街地を保って現在に至っているといった特徴がある。地方都市の低密度分散的なスプロールの進行を問題とする場合、高密度であった時代の市街地像として、1960年や1970年のDIDが用いられるが、豊橋市の1970年頃の密度構造は、中心部の面的な高密度地帯に、郊外に延びた鉄道沿線が高密度なフィンガー状の高密度市街地が加わる形状をしていたが、この形はまさに立地適正化計画のモデル図に近いと言える。このように、豊橋市は立地適正化計画が目指している都市のフォームに非常に親和性がある都市だといえると思う。歴史的に考察していくと、今日の市街地構造、特に密度構造は、過去の経緯とその都市特有のバックボーンを引きずって現在の形になっている。本日人口密度の話もしたが、人口密度は一度下がったものを上げるのは非常に大変である。戸建て住宅を基盤とした市街地が、比較的高い状態で密度が保たれていることは非常に大きな財産であると思う。豊橋の強みとして、先ほど申し上げたように、立地適正化計画型コンパクトシティと親和性が非常に高いことであり、ここに今後の都市づくりの具体のヒントがつまっていると考える。
講演要旨②
本日は2年前から有志で立ち上げた「あいちの宝物」の活動について紹介する。「あいちの宝物」は地方の原石を全国・世界レベルのヒット商品に育てる「にっぽんの宝物」の愛知版であり、例えると甲子園の地方予選のようなものである。これは、商品やサービスを品評するコンテストをイメージしていただければ良いと思う。どういった方が参加できるかというと、農業・畜産・水産からモノづくりや観光まで、県内事業者であれば、規模の大中小と問わず誰でも参加ができるイベントになっている。原石とは特別なものではなく、普通の事業者の方々が持たれている商品であり、皆さん自身であると考えている。先ほどは品評するコンテストイベントみたいなものと申し上げたが、類似のコンテストイベントとは大きく異なる点があり、商品と共に人が育つ仕組みとなっている。ここが「あいちの宝物」「にっぽんの宝物」の特徴的なところであり、後ほど詳しく説明する。「あいちの宝物」は、全国で唯一民間の有志が集い運営をしている。私は会社を経営しているが、他のメンバーはサラリーマンである。
「にっぽんの宝物」は、笑いあり、感動ありの非常に熱いイベントであり、涙される方も多く、大人が本気になれる貴重な場所だと思っている。私は自動車のブレーキの開発の技術者として14年間勤務し貴重な経験を重ねた。自分の能力の使い方を深く考えることにした結果、残りの人生を福祉や教育に捧げていこうと決断し起業した。地域の事が本当に何も分からなかったこのようなタイミングで出会ったのが「にっぽんの宝物」であった。「にっぽんの宝物」は日本の各地で開催されていたが、愛知県は開催されていなかった。ないなら自分たちでやろうと仲間と無謀にも立ち上げ、今日に至っている。
私が地域に目を向けてあらためて気がついたことは、どこの地域にも素晴らしい商品やサービスが溢れているということである。東三河地域や私の住む刈谷市を含めた西三河地域にも、たくさん素晴らしいものがあると感じている。伝統的なものもそうであるし、日本人らしく、コツコツと良いものを作り続けていらっしゃる方もたくさんいると思う。ただ、それが全国に知れ渡っているかというと、必ずしもそうではない。最近は海外にも簡単に出ていける時代ではあるが、そのやり方が分からないという方もたくさんいると思う。日本の特徴ある伝統的な商品は多く存在するが、社会・生活環境の変化などの影響で販売量が減少し、先細りとなって廃業を決断する事例も珍しい話ではない。こうした事例に共通するのは、良いコンテンツ、サービスや商品がないというわけではなく、それぞれが皆さんの人生をかけて作られている商品やサービスであるため本当に素晴らしいものである。しかし、こうした良いコンテンツが世の中に伝わっていない、拡がらない、正しく評価されていないといった側面があると感じている。足りないのは資源ではなく、「磨き方」「伝え方」「つながり方」ではないのかなという考え方が根幹にあり、これを仕組みとして作るのが「にっぽんの宝物」「あいちの宝物」の取組である。良い商品やサービスは既にあっても、その魅力が言語化されていない、比較されたことがないため多様な視点が入っていないというようなことがあると思うため、私たちが取り組んでいるのが「あいちの宝物」であり、この活動は商品の価値を再定義する場だと考えている。
ここで「にっぽんの宝物」の全体像について話をする。「にっぽんの宝物」は、①商品磨き上げ会としての地域セミナー、②販売マッチング会となる地域大会、③同じく販売マッチング会となる全国大会、④世界大会とセミナーからグランプリまで商品と事業者が成長する4段階の成長プロセスがある。これはグランプリを大会で受賞することが目的ではなく、事業者が成長すること、視座が変わること、自分の商品を第三者目線で語れるようになることであり、言い換えると成長プロセスの構造設計だと考えている。①の地域セミナーで仮説を立て、②の地域大会で市場に当てる。そして、③の全国大会で競争環境に置く、④の世界大会で再定義するというところであり、大切なのは繰り返しになるが勝ち上がることではない。他業界の人から「こんな使い方はあるのか」「こちらの方が魅力的ではないのか」と問われること、その問自体が多様な意見として、参加者が成長するきっかけになると思っている。「あいちの宝物」として私たちは、この①と②のプロセスを主催しており、③と④のプロセスは私たちの活動母体となる「にっぽんの宝物」が、各地域をとりまとめながら実施している。ちなみに昨年の世界大会は大阪関西万博で開催し、期間中4万8,000人を動員するビッグイベントとなった。
「にっぽんの宝物」「あいちの宝物」の狙いと構造であるが、それは「答え」を教えることではなく、事業者が能動的に考えるアクティブラーニングである。商品やサービスの開発には、「答え」はないものだと思っているが、アクティブラーニングとして問いを投げかけ、その問を受けて自社商品の価値の再定義し、それを言語化することで価値が明確になり「売れる」商品へ繋がっていくという仕組みである。私たちが主催する「あいちの宝物」が担当する①地域セミナーには、1次産業から3次産業まで多種多様な事業者が参加しており、異業種の意見が強烈に交わっている。例えば、農家がデザイナーの話を聞く、加工業者が料理人の話を聞く、行政の方から事業者に問いかけることもあり、その瞬間の交差が商品を進化させると考えている。そこで生まれた新たな問が、商品・サービスの開発のアイデアとして化学反応に繋がっていく。地域セミナーでは、異業種が集まっただけでは意見が交わらないため、化学反応に向けた仕掛けをしている。参加事業者が、2分間自社商品についてPRのプレゼンテーションをする時間を設けており、これが「気づき」の時間として成長の出発点になっている。ここでは、「事業者が消費者に伝えたい内容が、本当は伝わっていないのではないか」と気づくことが重要な点である。こうした機会をセミナーの中で設けながら、事業者自身が自分の強み・弱みをしっかり認識していくのがセミナーの内容であり、本質は人材の育成だと思っている。こうして「にっぽんの宝物」「あいちの宝物」は、単なる商品開発プロジェクトや表彰イベントではなく、人が育つ過程を通じて、結果として商品が進化するという逆のプロセスで商品が進化していくことが魅力であると私は強く感じている。
「にっぽんの宝物」は、全国23都道府県で開催されているが、冒頭に申し上げた通り愛知県では開催されていなかった。これら地域では、自治体や商工会議所が主体となって開催されることが通例となっている。先ほど話をしたように「あいちの宝物」は通例と異なり、企業ではなく民間人として有志で立ち上げた。自分たちの住む愛知をもっと良い町、ワクワクするまちにしたいという内発的動機に駆られスタートした私たちの挑戦である。2年前に初開催し、地域セミナーに174名の方に参加いただいた。参加者は私の地元である西三河が51%、東三河は22%、尾張21%であった。2年目の今年度は、東三河からの参加が伸びており、40%を超えるような状況であり、農業大国である東三河のポテンシャルを感じている。参加者も農業、畜産業、製造業、小売業、飲食業、広告・デザイン、コンサルタント、行政など多種多様な方々が参加している。異業種が混ざることで視点・発想が変わってくるが、これだけ多くの業種の方が参加されていることは、「あいちの宝物」が民間の有志の活動であることが大きく寄与していると感じている。ここで業界に囚われない多様な方々による活発な意見交換が行われることこそが、「にっぽんの宝物」「あいちの宝物」の真骨頂である。
ここで東三河の実例を紹介する。初年度の1年目から参加いただいた田原市の「Finger Lime Base」の事例である。フィンガーライムは素材の力はとても高いと思うが、流通量が少なく、消費者に知られていないというのが現状であり、その届け方が未完成な状況であった。普通の生産者は美味しいものを届けるところまでは意識していると思うが、どうしたら美味しくなるかだけではなく、どのように楽しんでもらうかといったところまで発想を広げていき、「Finger Lime Base」生産者の鈴木さんと加工業者の藤井さんがタッグを組んで急速に進化していった結果、魅力的な商品が出来上がった。私たちの主催する愛知大会でグランプリを見事受賞し、全国大会でもグランプリを受賞、大阪関西万博で行われた世界大会では準グランプリの受賞という素晴らしい結果であった。これは、田原からフィンガーライムの魅力を世界に全国に発信していった結果だと思っている。
「Finger Lime Base」鈴木亜紀奈さんのコメント
『自分たちは元々菊農家をやっていたのですが、コロナ禍で売り上げが減少し、菊のハウスを使って新しいことやりたいということでフィンガーライムを始めました。作ることはこれまでの農業経験を経て自分たちで模索していくと答えが出てきますが、販売するということに関しては経験がない部分であり、SNSを駆使したりホームページを立ち上げたりしましたが、農家との両立がものすごく大変で難しいと感じまして、どうにかできないかと思い「あいちの宝物」「にっぽんの宝物」に参加しました。グランプリの受賞を多くのメディアに大きく取り上げていただいて、SNSのフォロワー数も増加、知らない人へ広く伝わって田原市のふるさと納税返礼品としての売上も大きく増えました。自分たちの目に見えない方への情報提供がこの受賞から繋がっていることを通感しました。』
合資会社雅風 藤井恵美子さんのコメント
『最初の地域セミナーでフィンガーライムを紹介し、私はクラフトコーラで何かできないかと思って加工を始めました。セミナーで「こんな色を作ったらどう?」「こんな味があったら良い」といったいろいろな意見が出て、3種類のシロップに絞り込んで作っていったという経緯があります。いろいろな視野を持った多くの人から意見をもらい、とてもいい勉強になりました。世界が広がった感じです。』
この事例は、生産者である鈴木さんと加工業者である藤井さんがこの商品をどう届けるのかを真剣に考えて進化していったからこそ素晴らしい商品が生まれ結果に繋がったと思う。このように地域に挑戦する人の存在が重要であり、応援する人がいて次の挑戦者が出てくる。これによって繋がる地域となっての産業の好循環が生まれてくると思っている。地域の1人の挑戦者の存在が確実に地域を盛り上げる。これがすべての始まりだと思っている。東三河は、「食」「農」「ものづくり」が揃う全国でも稀な地域であり、本気で事業に取り組んでいる人も多く存在すると思う。私たちの提供する事業を磨く場があれば、東三河はもっと活気と魅力に溢れた地域になると思っている。そのため、私たちは問いを投げ合える場の提供を続けていく。「にっぽんの宝物」「あいちの宝物」は商品を選ぶ場ではなく、挑戦を応援する場であると考えている。愛知から、東三河から次の挑戦が生まれることを願っている。
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